CAN I TRUST OVER FORTY?
いきなり私事ではありますが、僕は一年と半年前に三十代へと片足を突っ込みました。
二十代は『DON'T TRUST OVER THIRTY』を心のどこかに掲げながら遅すぎた反抗期を闘っていたのですが、来るべき時が来てしまった。奇しくも新しい職は決まり、何とか形だけでも社会復帰を果たしたタイミングでした。
本当はその時にもこうしてブログを開設しようかしまいか考えていたのですが、生来の先延ばし癖によりここまで待つ事となってしまいました。毎年毎年年始にはあれをやってこれをやってと大層な目標を立てるのはいいものの、
結局仕事に忙殺され、
休みもどこかへふらりと遊びに行き、
気が付いたら2018年も4分の1が消えました。あああ。
この事からももう薄々お気付きでしょうけれども、今自室のPCに向かってこの文章を書いている僕はとてもではないですが、世の中から求められているであろう、脂の乗った男盛りの三十代のイメージとは到底かけ離れた人間です。
今はかろうじて正社員をしておりますが年収も大したことはなく、
趣味のTCGにいつまでもうつつを抜かし、
結婚はおろかクソ童貞まっしぐら。始まったばかりですけどもう書くのやめていい?
そんな有様であります。毎日毎日将来への不安で震える子羊。それが僕。
....だったのですが、遂に最近震える事を放棄し始めました。諦めなのか、好意的に解釈すれば達観、あるいは仏教でいうところの大吾なのか。
それは未熟ゆえわかりかねますが、どうもあの有名な孔子の『論語』によれば四十にして惑わず、とあります。ムーンライダーズと違い三十にしていまいち立ってない自分が言及するのもおこがましいですが、本当ですか先生。僕あと9年もないんですけど。
しかしながら同時に思ったのは、それは精神的な死ではないのか、という事でした。
この疑問は僕がまだギリギリ二十代だった時、大学時代のバイト先の先輩が飲みの最中急に来世がどう、などといった話をし始めてひどく面食らった記憶に端を発しました。
確かに先輩はその時もう結婚もしてお子さんも産まれていたのですが、それにしたっていくら何でもおおげさな、と。敢えて深くは追及しませんでしたが、それこそ脂の乗った時期じゃないかと。その時の飲み会で唯一ぶらぶらしていた僕はコンプレックス丸出しでそう思ったものでした。
でもいざ自分が先輩の年齢にこうして近付いた途端、ひどく死というか、具体的に言うと死ぬまでには○○したいよね、という考え方にぐっとシフトしたのです。
理由もなく死にたがっては滝本竜彦先生の小説を何度も読み返した若い頃とは違って死ぬ予定は今のところ一応ないのですが、現実的な話をすると健康面でも(幸い致命的なものはないものの)あちこちガタが出てきているのをこの一年で痛感しましたし、平均寿命が八十だろうと死ぬときは死ぬのです。あれはあくまで今の老人の指標であり、我々の未来を保証してくれるものではないのです。
そういった我々がつい追いかけがちなものは基本的に全てただの残像であって、今走り続けている一人一人の人間についてそうそう当て嵌められはしません。頭では二十代でも理解していたつもりですが、ここに来てやっと身体で理解できたような気がします。
またこれは精神的な死の方の話ですが、万一運良く今の会社で定年まで完走できたとしても、一体そこに何が残っているのだろうかと考えた時にちょっとぞっとしてしまいました。生き物としてはあとは子孫さえ残しておけばそれでいいのでしょうが、人間としては一体どうなんでしょうか。結婚は恐らく性分的にも不可能なので、その分尚更何かを形にしておかなければならないような気がしたのです。
他にもいくつか細々とした理由はありますが、この度ブログを立ち上げたのは三十の誕生日に感じた『死ぬまでに一度』といった点が大きく、また別の『死ぬまでに一度』の為の布石でもあります。
今の仕事を始めてからというものの本当に文章らしい文章を書く機会が減ってしまったのでお見苦しい点も多々あるとは思いますが、よろしければお付き合いください。
果たして四十になったその時、僕はどこに立って何が見えているのでしょうか。