CAN I TRUST OVER FORTY?

四十までにどれだけ惑えるかを競うブログです

人にやさしく

昨日、アニメーション映画『火垂るの墓』で知られる高畑勲氏が亡くなられました。

僕は子どもの頃毎日夕方六時からアニメ漬けで育った世代ではありますが、浅学にして氏の携わった作品と言えば『未来少年コナン』くらいしか観た記憶がなく、火垂るの墓が公開された前後といえば専ら『魔神英雄伝ワタル』の再放送を何度も繰り返し観たりだとか、(最近出たスパロボのムービー見て懐かしさのあまり泣きました)買ってもらったコミックボンボンで読めない漢字が出てくる度親にどう読むのか聞いて一時的に漢字に強くなったりだとか、清太と節子や『母を訪ねて三千里』のマルコと比べるのも失礼なほど呑気な幼少時代を過ごさせて貰いました。記憶は薄いですが世はバブル景気の真っただ中で、僕も当時インドネシアかぶれだった母親にくっついて何度も何度も連れて行って貰った記憶があります。あのキンタマーニ高原も行きました。

そんな暖衣飽食が当たり前の時代に高畑勲氏が火垂るの墓の公開にあたって、「人がやさしいフリをできる間にこの作品で問いかけたかった」と発言されていた事を、逝去の際の報道で知りました。なんというニヒリズムなのでしょうか。

フリ。そうなんです。衣食足りて礼節を知るなどという言葉もありますが、この世の中のやさしさというのはほとんどがやさしいふりなのです。あの半分がやさしさでできているというバファリンもその原価を知れば疑わしくなるように、やさしさとはつまり社会の余力のバロメーターなのであります。福本伸行氏の『賭博破戒録カイジ』で窮地に陥りながらも誠実さを見せた主人公のカイジマザー・テレサのようだと称賛したシーンがありましたが、あれこそが真のやさしさでしょう。

現に火垂るの墓の劇中でも戦時中という極限状態で本来庇護されるべきであるはずの清太と節子に冷たい仕打ちを、あるいは非干渉を喰らわせる年長者というのが出てきますが、我々が戦争とは無縁であるからこそ非難できるのであって、真にああいう状況に置かれたら誰にも責められないはずです。その辺りを絶頂の時期に突き付けられるという事が、高畑勲氏の、世の天才と呼ばれる人々の資格の一端なのではないでしょうか。僕の大好きな漫画『漂流教室』もまた、似たような時代背景がありました。

ただ移り変わる世相という問題はもちろんありますが、今我々が置かれている状況というのもわかりにくいよう薄皮に一枚包まれているだけで、本質的には切った張ったの戦国期、いや原始時代と何も変わっていないようにも僕には思えます。

それは何も南アフリカヨハネスブルグだとかブラジルのファベーラに限った話をしているのではなくて、命そのものを取られるか心をすり潰されるかの差であって(命あっての物種、という言葉も重々承知しておりますが)抜き身でのやり取りというのはこの世の中の本質がゼロサムである以上必ずどこかであるのです。古代の兵法書である孫子がいまだにビジネスシーンで度々取り上げられるのが一番の証左ではないでしょうか。

就職活動、延いてはその先の仕事。結局のところ生きるために飯を得る、という生物としての最小の行為自体がどこまで行っても原始的な野蛮さとは切っても切れないものなのでしょう。戦時中とは比べるべくもないですが、少なくとも火垂るの墓の公開当初よりかはやさしいフリをしにくい時代になっていると思います。

そんな中で如何に反自然的に、人間らしく振舞えるのか。裏を返せば逆境の中でこそ少しでも、本当にやさしくできるチャンスなのかも知れません。そう思いたいです。